「穏やかなる苛烈」ということばを、選ばなかった理由。

― オープニングエッセイ

トップページのキャッチコピーを考えていたとき、最初に浮かんだのは、「穏やかなる苛烈」という一文でした。

 

どこから来たのか、自分でもはっきりとはわからない。

けれど、その言葉が心に灯った瞬間、私はこの場の輪郭を、はじめて明確に感じたような気がしたのです。

 

この場の根っこに流れているものを、もっとも的確に言い表している──そんなふうに思えるほど、このフレーズは私にとって特別でした。

 

苛烈。それは、まっすぐに刺さる強さを持つことばです。

鋭さも、重さもある。日常のなかでは、あまり軽々しく使わない種類の語。

 

けれど同時に、私はこのことばにどこか女神のような、原初的で深い静けさを感じていました。

イシュタルやイザナミのような、生と死の境をたゆたう存在。

 

何かを壊すことと、何かを産み落とすことが、もともと同じところから来ていると知っている者たち。

そうした気配を、私は「苛烈」という言葉に見ていたのです。

 

でもその力は、決して声高ではない。

荒ぶる嵐ではなく、地の底で長く燃え続ける熾火(おきび)のように、内なる静けさとともにあるものです。

 

むしろその力は、気づかれないまま、ずっとそこに在り続ける。

誰かがふと立ち止まり、その存在を感じたときにだけ、そっと火が灯る。

そういう種類の強さです。

 

私が描きたかったのは、そうした「静かな力」に支えられた場所。

誰かを打ち負かす強さではなく、黙って傍にいてくれるような強さ。

長く息をしている木の根のように、目には見えないけれど、確かにそこにある支えのかたち。

 

それが、Isanaという小さな世界の、見えない礎になっていると私は思っています。

 

けれど──そのことばを、トップページのキャッチには使いませんでした。

なぜなら、Isanaは「入口」であってほしかったから。

 

初めて訪れる人にとって、少しでもやわらかな光を灯していたかったから。

焦らず、無理せず、そっと深呼吸するようにふれてもらいたい。

この場にたどりついた誰かが、自分のペースで、心の歩幅で進んでいけるように。

 

だから私は、「苛烈」という言葉を入口に立たせなかった。代わりに、やわらかな言葉たちをそっと並べたのです。

 

けれど、私は今でも思っています。

この場所にはたしかに、苛烈なものが流れている。

けっして外側からは見えないけれど、ひっそりと、しなやかに、深いところで生きているのです。

 

ほんとうに強いものは、ときに、やわらかい皮膚をまとっています。

 

過去を抱きしめながら前に進む人の、静かな背中のように。

 

やさしさは、弱さではありません。

それは、“選び抜かれた静けさ”

目を凝らさなければ見えないほどの繊細さで、でも、心の奥にしっかりと根を張っている。

 

だから私は、この言葉を選ばなかった。

けれど、選ばなかったからこそ──この場の奥深くに、そっと息づかせておきたかったのです。

 

言葉は、語られなかったときにも意味を持ちます。

それは、いつか誰かが「なぜこの言葉ではなかったのだろう」と思ったとき、内側からそっと立ち上がって、もう一度その存在を知らせてくれるから。

 

「穏やか」と「苛烈」。

 

一見、真逆の性質に見えるかもしれない。

でも私は、ふたつの間にある細い糸の存在を信じています。

その糸は、やわらかく張りつめていて、ときに風にたわみながら、絶対に切れない。

 

そうやって支え合うように存在していることばたち。

その片方に気づいたとき、もう片方もまた、あなたのなかで息を吹き返す。

 

そのことを、ふと誰かが思い出すように──この一文を、Isanaの最初の記事として、ここにそっと残しておきます。

語られぬ力が、やさしさの奥で灯っている。

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